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2016-10-17カンツォーネ「オー・ソレ・ミオ」 [童謡・唱歌]




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苦手なカンツォーネをオーケストレーションしていて、やはりこの有名な「オー・ソレ・ミオ」もどうも苦手は克服できません。題名は’私の太陽’という意味。どうも苦手な原因は日本の演歌が苦手なのと同じというところに落ち着きそうです。時として演歌も良いと思える時も無いではないですが、私がカンツォーネに近づけば近づくほど日本の演歌的要素に出会ってしまうのは、私の近寄り方がまずいだけなのかもしれません。

低音のリズムの参考のためにあの有名なカルメン1幕のハバネラのページを開きました。そのリズムパターンはチェロだけで書かれています。Cb.はPizz.で頭打ちのみです。合唱も乗っているのにVc.だけで大丈夫か、と思うところあたりが私の未熟さなのでしょう。良いオーケストレイターの譜面は薄いことが多い。これは常に抱く感想です。ビゼーのオーケストレーションも意外に薄い。こういう機会に有名なオペラのスコアを違った角度で見直すことができるのはありがたいことです。そして見る度に新発見があります。吹き延ばしも弦とべったりではなく、強奏の部分の木管には第3音がない・・・等々。本当に次から次へと気付かなかったところがでてくるものです。だからスコアは面白い。

実際の私のオーケストレーション、Vc.のハバネラのパターン、どこかで休みが必要かと考えたわけです。オクターヴ上げてVa.に移してVc.に休みを作りました。

Va.では音勢とボリュームが足りないと思い、その上のVn.はDiv.して1st.と2nd.から1人ずつソリストにして残りはPPで弱奏にすることに。イメージは小唄風。Vc.を休ませたいばっかりにとった方策でした。

Vc.のパート譜を考えると申し訳ない、なぜならずっと同じことが書かれているのですから。楽譜というよりもうそれは模様ですね。もちろん私も機械的な同じ繰返しを聴きたくもありません。なので少しの間休んでもらうことが、このオーケストレーションで最も力を入れたところでした。 

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終了御礼
10月15日(土) なんば、B-Roxy  P.平野達也+Vo.ki-ku無事終了しました。kikuさんの満を持してのステージにたくさんのご来場がありました。みなさまありがとうございました。
ビーロキシーは大阪なんばにある45周年を迎える老舗。連日良質のジャズが楽しめるお店です。ビーロキ・ママが一人できりもりしておられます。http://www.b-roxy.com/  

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平野達也、平野達也トリオ今後の予定    
10月21日(金)京都、祇園、KeyStone 「平野達也ソロジャズピアノの夜、Vol.8」21:30〜、22:30〜 テーブルチャージ¥1.000-mc:チップ制

11月9日(水)神戸Always、平野達也(P)+宗竹正浩(B)Duo、Open:19:00/Start:19:30〜、21:00〜、mc:¥2.000-  

12月7日(水)非公開演奏会 
12月11日(日)非公開演奏会
12月17日(土)なんば、B-Roxy、20:00〜,21:30〜 P.平野達也+Vo.ki-ku、
http://www.b-roxy.com/  ※mc:¥2.000-
12月23日(金・祝) 京都・四条、シルバーウィングス、クリスマスライブ(仮)15:00〜
12月30日(金)神戸Always、Tp.横尾昌二郎+平野達也トリオP.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔、 19:30〜、21:00〜 http://always-kobe.net/ mc:未定

2017年1月6日(金)八戸ノ里、蓄音機、P.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔、19:30〜、21:00〜 mc:¥2.000-    


2016-10-15カンツォーネ「忘れな草」 [童謡・唱歌]




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カンツォーネ「帰れソレントへ」が苦手なことは以前にも書きました。
今、目の前にあるのは「忘れな草」(Non ti scordar di me)という曲。
曲は2つの部分から成ります。
mollの部分とdurの部分。mollの部分にはRitenuto(リテヌート)の表記、これはRubart的なものと考えてよいでしょう。
続くdurの部分には意外や意外、Ritornello(リトルネロ)の表記が・・・。音楽に詳しい方はきっとバロック音楽のリトルネロ形式を想起されることと思います。しかしここにいうリトルネロとは多少ひねりを加えた方がよさそうです。
「主体をなす詩への補足的付加句およびその部分の音楽」(中辞典)、またアリアの後奏という意味もあった(同)ようなので、ジャズ曲のヴァースとコーラス(元は映画やミュージカル)、オペラのレチタティーヴォとアリアの関係ではないこと、その点は幾ら似ていても厳密に分けて考えたいところです。それは解決句であったり、付加的総奏の形式であって、そういう形式は洋を問わず古くから多く見られる形式です(例えば古い西洋教会音楽の応答)。前段と後段、もちろん後段は歌い易くなじみ易いものが充てられる。例えば多数による唱和のような形、ソロの歌唱に合唱が応答するという定型的結尾句など。
多くは詩型より発したこのリトルネロという形式は、いわゆるバロックのリトルネロ形式の前景にあるものと考えられます。そのような前景としてのリトルネロが奇しくもこのカンツォーネにある、と苦手な曲を目の前にして、リトルネロ形式のことを反芻してもみます。苦手ながらに得る物もあるものです。

以前書いたものを再録します。 
リトルネロ形式がソナタ・アレグロフォームに与えたものについて
1.対照性の重要度、協奏の原理(楽器、パート、調、主題)の展開において。
2.新たな部分への期待の連鎖によって、ソナタ・アレグロフォームの第2主題の確立を導いた(第3主題はその名残と思われる)
3.割り切れるセクション、ブロック構造という楽曲構造への注目。楽曲に対する構造的思考への準備。
4.オペラ的筋書き、器楽によるストーリーとしての音楽展開(後に弁証法)(ヴィヴァルディの功績大)
(2015-12-05 18世紀初頭のソナタ・アレグロフォーム、ノート2〜リトルネロ形式の与えたもの http://t-hirano.blog.so-net.ne.jp/2015-12-05)

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当日告知
10月15日(土) なんば、B-Roxy、20:00〜,21:30〜 P.平野達也+Vo.ki-ku、※mc:¥2.000-
http://www.b-roxy.com/  
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平野達也、平野達也トリオ今後の予定    
10月21日(金)京都、祇園、KeyStone 「平野達也ソロジャズピアノの夜、Vol.8」21:30〜、22:30〜 テーブルチャージ¥1.000-mc:チップ制
☆お薦め 11月9日(水)神戸Always、平野達也+むねたけまさひろ(B.)Duo、Open:19:00/Start:19:30〜、21:00〜、mc:¥2.000-  
12月23日(金・祝) 京都・四条、シルバーウィングス、クリスマスライブ(仮)15:00〜
12月30日(金)神戸Always、Tp.横尾昌二郎+平野達也トリオP.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔、 19:30〜、21:00〜 ※日程が変更になっています。ご注意下さい。http://always-kobe.net/ mc:未定
2017年1月6日(金)八戸ノ里、蓄音機、P.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔、19:30〜、21:00〜 mc:¥2.000-   


2016-10-04帰れソレントへ2/2〜波浮の港 [童謡・唱歌]




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ソレントというのは地名で、イタリアはナポリの南にあるソレント半島の先端にある港町です。地図でも分かる通りナポリはイタリアの西海岸にあるので、この「帰れソレントへ」の主人公は西に向かっているということになります。地中海はスペイン、サルディーニャ島の方角です。

ソレント地図.jpg

’’うるわしの海は’’の訳詞で始まるこの曲、去った恋人に帰って来いと歌いかける方角は、従って西向きです。東に向かったのでは山になってしまいます。 日本の瀬戸内海のように穏やかな海ではなく、地中海はうねりがあり、そういう風景がこの歌の背景にはある。鬱屈とした行き場の無い失恋、未練とうねる海。これは風景、位置的考証が成立している、つまり失恋した主人公が、恋人の去った西に向かって(落日、夕日に向かってなら、尚ドロマテッィクです)恋人の帰還を願う歌かと。

一方、連想の飛躍で野口雨情の「波浮の港」の主人公または詩人は東に向いているとしか言えないことになります。

3番、’’島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ 伊豆の伊東とは 郵便だより 下田港とは ヤレホンニサ 風だより’

波浮港から伊豆半島の下田は西にはあたりますが、船の出る方角は間違いなく東向きです(三原山からの山風を利用するとも考えられる)。もしくは南。西には三原山がそびえ陸なので進めません。 「波浮の港」の「島のむすめ」の哀愁を帯びた視線の先は東もしくは南。ドラマティックに西の落日、夕日の先にある心に抱く人の存在がある下田港の方角ではないところが「帰れソレントへ」とは違います。その方角へ向き合っていない、つまりその方角に向かって呼びかけていないということになります。

伊豆地図.jpg 

しかし作者の雨情はこの歌の舞台、伊豆大島を訪れたことがなく、位置関係がどうのこうのという問題は当初から問題にされていないともいえます。

一方、方角の考証も成立し、その現場に立ったことのある詩作であろう「帰れソレントへ」は、それゆえに想像を越えた現実味と臨場感に溢れるものといえそうなのですが、私の場合想像で書いた「波浮の港」の方を好んでしまうのは何とも不思議なことです。これは単なる個人的な趣味に過ぎませんが、「波浮の港」にもポピュラーソング的要素、歌謡曲的、大衆歌的要素があり、それは前回のカンツォーネの定義を思い出すと、そういうところもこのふたつの曲は重なり合うわけです。重なり合ってもなお「波浮の港」の方がよいと思えるのは、私が何か日本人的なものを持つからなのでしょうが、ということはどこかで演歌もOKなはずなのですが、それでも「帰れソレントへ」に抱いてきた演歌性はやはり苦手です。 こういう傾向は年々増していくように思えます。それは良いも悪いも日本人であることを自覚することなのでしょうが、西洋音楽といってもこういう距離感でやっている・・・このような苦手なカンツォーネを目の前にしてそういう自分の心証に気付きながら苦手な曲に衣装を付けるべく音符を置いていくのです。おわり

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平野達也、平野達也トリオ今後の予定   
10月7日(金)、なんば、B-Roxy、平野達也トリオ、P.平野達也、B.岸政彦、D.藤木亨,20:00〜、21:00〜、http://www.b-roxy.com/  ※mc:未定
10月15日(土) なんば、B-Roxy、20:00〜,21:30〜 P.平野達也+Vo.ki-ku、
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10月21日(金)京都、祇園、KeyStone 「平野達也ソロジャズピアノの夜、Vol.8」21:30〜、22:30〜 テーブルチャージ¥1.000-mc:チップ制
12月16日(金)神戸Always、Tp.横尾昌二郎+平野達也トリオP.平野達也、B.未定、D.弦牧潔 http://always-kobe.net/ mc:未定
12月23日祝 京都・四条、シルバーウィングス、クリスマスライブ(仮)15:00〜

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平野達也作品新規出版「ペンテコステ」〜吹奏楽のための祝典序曲〜
発売元ディスクリエイトミュージックの「ペンテコステ」のページは、こちら↓ 
http://discreatemusic.hatenablog.com/entry/2016/05/16/113049 

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2016-10-03帰れソレントへ1/2 [童謡・唱歌]




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「帰れソレントへ」(Torna a Surriento)を編曲していて、しかし、どうしても好きになれないこの曲を眺めています。

イタリアでも頻繁に歌われているのでしょうが(歌手の友人談)、イタリア色を出す便利な曲として日本ではもてはやされていて、穿った見方なのでしょうが、どうしてもイタリアンレストラン等で歌われている情景が目に浮かんでしまいます(近所にもその様な仕様のお店がある)。

大体、カンツォーネといわれるものの範囲もあやふやな気がしますが、詳しく知りたいと思ったこともありません。しかし私は専門家なのでこれで放ってはおけません。

カンツォーネ(伊:canzone) イタリアのポピュラーソング。明快なメロディをもち、親しみ易い。カンツォーネ・ナポレターナ(ナポリの歌)が早く知られた(中辞典、音楽之友社)

カンツォーナ(canzona)と語尾が変れば、13-17世紀のイタリアの詩型で、16世紀でいえばマドリガーレやフロットラと同義の、あの歌一般を時代の中でそう呼んだ広範に使用されたあの言葉になります。 

中学校の時の思い出が蘇ってきます。おどけたO君が音楽のU先生と文化祭でこの「帰れソレントへ」を歌っていたことを・・・。制服の胸に赤いバラをさして、あれはあれでお芝居みたいで楽しかったけれども・・・。

「帰れソレントへ」は中学の教科書にも載っていました。その当時から演歌みたいな曲で苦手だなとは思っていました。

つづく

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終了御礼、10月2日(日) 神戸Always、Tp.横尾昌二郎+平野達也トリオP.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔 http://always-kobe.net/
演奏曲:1st:Four(M.Davis),I Remenber You,Polkadots and Moonbeams,I Hear A Rapsody
2nd:Softly As In A Morning Sunrise,I'll Be Seeing You,If I Should Lose You,The Sidewinderの全8曲

わざわざ生駒市から神戸までお越し下さったご夫妻、本当にありがとうございました!感謝感激です。王将の魅力について意見が合ったこと、大変嬉しかったです!次回のこのセットは12月16日(金)です。宜しくお願いします!
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10月7日(金)、なんば、B-Roxy、平野達也トリオ、P.平野達也、B.岸政彦、D.藤木亨,20:00〜、21:00〜、http://www.b-roxy.com/  ※mc:未定
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2016-06-23「この道」8〜旋律について [童謡・唱歌]




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山田耕筰が「この道」につけた旋律、毎回繰返される「ああ、そうだよ」の短7度音程、これは全く童謡らしくない音程と言わざるを得ません。属七の和音の第7音から根音への下降、E-durであれば、A音からH音。まずこのような歌いづらい音程は、私の知る限り童謡には皆無です。どうしてそんな難しい音程を童謡に施したのか。山田耕筰、その答えの一端と思えるものを引きます。

「真に子供の核心に触れた芸術的童謡、たとえ児童が完全に理解し得る面は狭いにしても、児童は児童なりの直観によって、或程度の深さまでその芸術的内容をかなり的確に感知することが出来るにちがいありません。」(池田百合子氏の研究ページより引用、出典-編集・校訂、後藤暢子「山田耕筰作品全集9」(春秋社)1993)

率直な感想ですが、こういう厳格な姿勢が、時として日本の童謡の格調を保つ要因になっているのではないでしょうか。子供子供しないということ、分からなくても手を抜かず書くという姿勢。

「子供向け」という言葉には注意が必要なのでしょう。「子供向け」とはあくまで大人が考えた「子供向け」なのですから。

また、短7度音程を使ったから芸術的になるとか、ならないという訳でないのはもちろん、そのような方法論は成立しません。ただ作曲姿勢として短7度は難しいから童謡には使わない、という姿勢はここには無いことは確かです。

山田耕筰のいう芸術とは、作曲家の自然であって、対象を選ばないという意味だと私は解釈します。つまりそれが大人向けであるとか、子供向けであるとかいうことに潜む、作曲における非自然体をまずは排除するべきだという姿勢だと。

「この道」という歌を暫く見つめ続けて、山田耕筰にはR.シュトラウスの多少の匂いが、また、北原白秋にはリルケの多少の香りを感じました。これはあくまで私的な感覚です。 

しかし私ならやはり童謡に短7度音程は使いません。なぜならそれは歌いづらいからです。
しかしここが凡庸な作曲家と大作曲家山田耕筰の違いなのでしょう。  

山田耕筰は「この道」についてこう書き残しています。
「世の誰よりも母に愛され、世の誰よりも母に慈しまれた私は、世の誰にもまして母を思ふ心切である。『この道』を手にした私は、いとけなかりし日を想ひ、あたたかい母の手にひかれて、そぞろ歩きした道を偲び、ありし日のあはい追憶に耽らずにはをられなかつた。私は亡き母の愛にひたりながら、静かに『この道』を唄ひいでた。どうか母を慕ふ心をつれびきとして、この小さい歌を唄つて下さい。」(NHK高校講座学習メモより) 

「この道」という歌にとって、最大の幸運とは、作詞と作曲という両翼を担う二人の作家の、母への切なる想いが重なったことにあったのではないでしょうか。おわり 

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・2016年6月25日(土)京都、祇園、KeyStone 東山区弁財天町8-1 祇園壱番館ビル2F/tel:075-708-7288 「平野達也ジャズピアノの夜、Vol.2」好評につき同月再演決定! 1st.20:30,2nd.21:30 /テーブルチャージ:¥1.000-/ライブチャージ:チップ制 https://www.facebook.com/Acoustic-Bar-Keystone-295723287122521/ 
・2016年7月1日(金) 八戸ノ里、蓄音機、19:30〜 P.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔 
・2016年7月16日(土) 神戸Always、20:00〜 横尾昌二郎(Tp.)+平野達也トリオP.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔 http://always-kobe.net/
・2016年7月23(土)なんば、B-Roxy、20:00〜,21:30〜 P.平野達也+Vo.kiku、初共演 MC:¥2.000- http://www.b-roxy.com/
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2016-06-22「この道」7〜形式について [童謡・唱歌]




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川本三郎氏によれば「(略)三連に来て、突然、「母さんと馬車でいったよ」と過去が思い出される。「からたちの花」の五連「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ」と同じように起承転結でいえば転になる。」とします(川本三郎『白秋望景』新書館2012-池田百合子氏「なっとく童謡・唱歌」、「この道」研究項より)

「この道」の詩構造が、起承転結であることには、この論考の随所でもふれてきた3番の特殊性により、筆者もその通りだと思います。しかしそれだけでは不十分であるとも思うのです。起承転結に加えて、この詩は二部構造をも持つものと筆者は考えています。

それは以下の2点によります。
1.歌い出しによる構造区分。1番「この」2番「あの」 3番「この」4番「あの」のように、<この>+<あの>、<この>+<あの>の2セットで出来ていることは、この詩が単なる起承転結というものだけでは言い表せない構造を持っている証左といえます。
2.時制による構造区分。即ち、1番<現在>→2番<現在>→3番<過去>→4番<過去+現在> による。
<現在>という時制から<過去>という時制への転換、これは思った以上に大きな転換であり、起承転結という継続した一方向の流れだけではどうしても捉えることができない、詩中にある大きな、そして断絶に近いもののように思えます。
この明確な構造区分は、作曲の立場から詩を眺めると、どうしても看過できない区分であって、「この道」の詩構造をいうときに、起承転結だけでは、どうしても不十分に思えるのです。
このことは山田耕筰が付けた曲の構成について、特に、間奏の有無について、批判的な意見を抱く原因になりました。作曲の立場からいうと、山田耕筰は2番と3番の間に何ら作曲的な何かを施しはしませんでした。
私自身にこの問題を置き換えると、持論に従いきっと2番と3番の間に間奏を挟むだろうと思うのです。その間奏はきっと前奏とはまた違ったものにするだろうと思います。
山田耕筰の作曲は、いわゆる有節形式で、前奏の後、1番から4番まで続けて歌われるものです。つまり2番と3番の間に、如何なる音楽的工夫も施さないことを「選択」したのです。

しかし、山田耕筰が付けた旋律のままに、もし2番と3番の間に間奏、または前奏をもう一度間奏の代わりに使ったとしたらと想像してみます。私には驚く効果があるように思えました。間奏をもし挟むと、今度はこの詩自体、4連の連なりが短いものに感じられてしまうのです。短いことがかえって強調されるといったほうが適当でしょうか。これは大変不思議なことです。間奏を入れれば当然演奏時間は長くなるのですが、白秋の詩自体が非常に短いものに感じられる。この不思議な効果を山田耕筰が考えたかどうかまでは私には分かりません。 

話しを戻します。私ならやはり2番と3番の間に間奏を入れます。それが私の詩の読み方だからです。3番と4番の伴奏も少し違ったものに変更してしまうと思います。
しかしここが凡庸な作曲家と大作曲家山田耕筰の違いなのでしょう。 

「この道」https://www.youtube.com/watch?v=Vw4-jLS3o8c (聴きづらいですが、山田耕作が伴奏しているもの。何かの参考になるかもしれません)

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・2016年6月25日(土)京都、祇園、KeyStone 東山区弁財天町8-1 祇園壱番館ビル2F/tel:075-708-7288 「平野達也ジャズピアノの夜、Vol.2」好評につき同月再演決定! 1st.20:30,2nd.21:30 /テーブルチャージ:¥1.000-/ライブチャージ:チップ制 https://www.facebook.com/Acoustic-Bar-Keystone-295723287122521/ 
・2016年7月1日(金) 八戸ノ里、蓄音機、19:30〜 P.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔 
・2016年7月16日(土) 神戸Always、20:00〜 横尾昌二郎(Tp.)+平野達也トリオP.平野達也、B.岸政彦、D.弦牧潔 http://always-kobe.net/
・2016年7月23(土)なんば、B-Roxy、20:00〜,21:30〜 P.平野達也+Vo.ki-ku、初共演 mc:¥2.000- http://www.b-roxy.com/
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2016-06-21「この道」6〜どうして3番にだけ色彩がないのかへの一考察 [童謡・唱歌]




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私は「この道」3番の風景の中には「雲」と「山査子の枝」が無ければならず、3番の「雲」と「山査子」がその風景の中(記憶)に存在していなけらばならない、と書きました(2016-06-19「この道」4〜時制について#1)
そしてその3番に潜在する「雲」と「山査子の枝」は、やはり白の色彩を持たねばならないはずでした(同一事物の比較)。しかしその隠された歌詞ですら、3番に出てくる「お母さま」と「馬車」の色彩を何ら表してはくれません。「馬車」や「お母さま」、それらの色彩を表す手掛かりが詩句の中に見出せない3番は、色彩が無い連です。
思い出自体の色彩が白色であるという「言い方」はポエジーで聞こえは良いですが、今、問題にしていることは、詩句が色彩を持たないということなのです。 

1番から2番の流れを考えると、路傍のアカシヤに目が止まり、歩みをそのまま進め、丘の上に白い時計台を見つける、という北海道での<現在>の継続した流れがあります。この継続した流れは3番から4番にも確認できます。時制についての回でも見たように、4番の白い「あの雲」と白い「山査子の枝」は3番にも在って、「も」によって(「あの雲は」に改作されても)、また過去時制を3番が持つことによっても、4番にもあらねばならなりませんでした。それは記憶(3番)と現実(4番)の連続でもあり、この4番の時制<過去+現在>という<現在>という時制を含むことによって、4番は更に1番2番と同じく、札幌の<現在>の同一線上にもあり、<現在>という時制を共有もしています。それは<現在>においても、白い「雲」と白い「山査子の枝」を4番の<現在>の中で確認していることでも分かります。ですからこの4番は1番と2番の同次元、つまり札幌での<現在>の、継続した歩みでもあるわけです。

ということは唯一特殊な<過去>を持つ3番は、これら継続される歩みが中断されたことを意味すると考えられます。なぜなら1.2.4番のように色彩を表す詩句が無いだけでなく、歩みの継続を表すものもないからです。言い換えると馬車が進む時間は1.2.4番の歩みが進む時間とは別次元であるということです。しかし、歩みを止めることが、色彩が無いことの説明にはどうしてもなり得ません。

今一度、この詩の目的に返れば、それは最も大切な母親との記憶を思い出すことにあり、その目的は全て3番に収斂されるものといえます。
歩みの継続と断絶という観点からすると、3番のそれは断絶であり、色彩の継続からいってもそれは同じく断絶であって、ここではこの詩に登場する如何なるものにもまして、それらを凌駕するものが描かれていると考えなければならないのでしょう。つまり歩みが断絶し、色彩が断絶したという、他との同価値的事物の並列や、その比較の問題を超越する、上位の価値、そのような優越的上位の価値が下位の価値にまさったということ。そして下位の価値を潜在化させるほどにそれを覆い隠してしまったということ。喩えるなら、太陽の光が明る過ぎて、昼間の星は見えないということです。 

「この道」の主題、思い出の本体(最も重要な思い出=目的)に向かおうとする時、その本体性ゆえに、周囲の色彩は二次的三次的なものに降下したのではないか、筆者はそのように考えます。そう考えることことによって、本体である思い出自体の重要性はますます高まり、この詩に横たわる論理を逆に辿ることにもなります。またこういう風にも言い換えることができます。3番に色彩はあった、しかし、色彩によって導かれた本体であるところの最も重要な思い出は、潜在する色彩を越えるほど、その思い出自体の重要性がまさった。だから3番には本体のみが描かれ、あるはずの色彩は描かれなかったのだと。

「この道」https://www.youtube.com/watch?v=x2oJA89uPTc

北原白秋.jpeg 北原白秋

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2016-06-20「この道」5〜時制について#2 [童謡・唱歌]




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童謡「この道」は、3番の最も大切な思い出、それは母親と共に在る、南関町の道を思い出すまでの、記憶の連鎖による遍歴と得心の過程と私は捉えています。

1番2番では<現在>という時の流れが継続して進行していくことが分かります。

1.この道はいつか来た道、
ああ、そうだよ、
あかしやの花が咲いてる。

2.あの丘はいつか見た丘、
ああ、そうだよ、
ほら、白い時計台だよ。 

 字義通りに捉えるなら「この道はいつか来た道」という自問に対し、「ああ、そうだよ」といっているので、昔、北海道を訪れたことを、今、再び訪れ、思い出しているともとれます。しかしそのようなことを年譜で調べる気にもなりません。白秋がそんなことを歌うはずはないと思うからです。前に来たことのある札幌の風景を懐かしむという内容などと。 
 2番ともども、その記憶の蘇生は、全て3番に向けられているのではないかと考えます。つまり白色の色彩を持つ「アカシヤ」、とそれに続く「時計台」は、それら白色という色彩によって、過去の最も大切な思い出、南関町の白い雲と山査子を導くまでの道しるべであると。
「ああ、そうだよ」と繰返される感慨は、それぞれ出会っていく別々の事物に向けられ、1番2番では核心の記憶を思い出した感慨ではなく、核心の記憶へと一歩一歩近づく道しるべを見つけた段階的感慨ではないのかと考えます。つまり1番2番の「ああ、そうだよ」と3番の「ああ、そうだよ」の強さが全く違うものであるのではないかということです。そして同じく4番の「ああ、そうだよ」も他の連とは全く違う感慨に満ちていることになります。

3.この道はいつか来た道、
ああ、そうだよ、

お母さまと馬車で行ったよ。 

4.あの雲もいつか見た雲、
ああ、そうだよ、
山査子の枝も垂れてる。

これらの持論により「この道」全体の流れを意訳すると次のようになります。 

1番「この道はいつか来たことがあるような気がする。アカシヤが白いのを見てハッとするのは、きっと私の記憶には白い花が心を占めているからだろう。」

2番 「(歩みを進めて)見上げると丘に白い時計台が見えてくる。ああ・・・アカシヤの花に、白い時計台・・・、私はもう少しで大切な思い出に再び帰るのだ。」

3番「ああ、そうだ、ようやく私は大切な道の思い出に再び出会うことができた。ああ!そうなのだ、今でもはっきりと思い出す。あの馬車で行った道、いつもそばに母さんがいてくれた・・・。ああ、本当に懐かしい。これこそ私の思い出すべき道だったのだ。」

4番「(我に返り現在の札幌の道を更に進み、更に上を見上げる)(感慨深く)ああ・・・、ここにも白い雲が浮かんでいるなぁ。母親と行ったあの思い出の道にも同じ白い雲が浮かんでいたっけなぁ。(少し激して)ああ・・・、この道にも山査子があるではないか。母親と通った道にも、山査子の枝が垂れていたっけ・・・。本当に懐かしい。それはいつの日のことだったのだろう。思えば遠くまで歩いてきたものだ・・・。」 

ニセアカシヤと山査子の開花時期はともに5月であるという。 
この意訳は、あくまで筆者の持論に基づくものであり、それ以上のものではありません。 

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その後作者北原白秋によって4番歌詞、「あの雲も」の「も」は、「は」に変えられ「あの雲は」に改作されたという(1929年昭和四年)。
私のしてきた解釈では「も」は重要なファクターであり、その点では詩中の一文字をかいかぶっていたということになります。4番の二つの「も」はこの詩解釈の突破口でした。二つの「も」にはお世話になったのです。そうして行なった解釈や意味、時制は一文字の改作によって大きく変るものではないものの、かといって改作前のオリジナルが白秋の感慨を最もよく表すものだ、などと主張する気は全く起こりもしません。
今回改めて「この道」について考え直したことは色々と勉強になりました。
最後に、「も」から「は」への改作は『各連の語調にそろえたものであろう』という研究を目にしました(池田百合子氏)。そうであっても、そうでなかったとしても、私はどちらでもかまわないと思います。全くの想像ですが、白秋は気軽に改作したのではないでしょうか。それは書き切ってあるものについての局部の改作であり、動じない全体に対して、気軽に求めに応じた改作であったように想像します。これは全くの想像です。やはり私は未だに白秋のことを、かいかぶっているのかもしれません。おわり

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平野達也編曲作品初演、終了御礼
ラフマニノフ作曲、平野達也編曲「交響曲第2番、3&4楽章」 
宝塚市吹奏楽団、第37回定期演奏会 平成28年6月19日(日) 三田総合文化センター・郷の音ホールにて
あいにくの雨模様でしたが、たくさんの来場者があったのは同団の人気の高さが改めて分かるものでした。フルートパートの澄み切った音程が心に残りました。お越し下さったみなさまと、素晴らしい演奏の同団のみなさまに感謝したいと思います。ありがとうございました。
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2016-06-19「この道」4〜時制について#1 [童謡・唱歌]




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「この道」の時制について、先に私の結論を述べます。
1番<現在>→2番<現在>→3番<過去>→4番<過去+現在> という時制を持つと私は考えています。

1番と2番の<現在>は、40歳の白秋が札幌を訪れた時(大正14年1925年)の<現在>であって、これは事実としてどこにでも書いてあるので、私にはそれ以上の興味はありません。繰返しになりますが、ここでの<現在>とは、札幌を訪れた四十の白秋の<現在>です。

3番と4番の時制については4番から導くことができます。私が今まで「この道」の時制について正しく理解してこなかったのは、この4番の歌詞に、誤読に近い不注意があったからです。

4.あの雲いつか見た雲、
ああ、そうだよ、
山査子の枝垂れてる。 

この4番には2つの「も」が入っています。それぞれ、「あの雲も」の「も」と、「山査子の枝も」の「も」です。まず「も」が入ることは複数です。その複数とは、それぞれ同じ事物の比較でなければなりません。すなわち、雲と雲、山査子と山査子の比較です。
それでは、どのような比較が成り立っているのか。もう一度4番の最初「あの雲もいつか見た雲」に返ると分かります。「あの雲」には「いつか見た」という過去形が使われています。従ってここでの「雲」は、いつかの「<過去>に見た雲」との比較でなければなりません。そして比較というものが成立するためには、その比較をする(している)主体が<現在>に在ることを前提とします。その前提となる<現在>が大正14年、白秋が札幌を訪れた<現在>という時制になります。

これを元に、4番の冒頭行を意訳してみます。
「今、目の前にあるあの雲は、いつかの過去に見た雲と同じである」。四十になった白秋が、それより以前に見た雲と比較して、その時の雲と同じである、と言っていることになります。ここに現在と過去が記憶という架け橋で結ばれる、同一事物の比較の重なりがあります。

この時制は山査子にもあてはまると考えられます。山査子の出てくる部分を同じく意訳してみると次のようになります。
「今、目の前にある山査子の枝が垂れているのは、いつかの過去に見た山査子の枝が垂れている様と同じである。」四十になった白秋が、それより以前に見た山査子の枝が垂れる様と比較して、その時の山査子の枝が垂れる様と同じである、と言っていることになります。ここにも現在と過去が記憶という架け橋で結ばれる、同一事物の比較の重なりがあります。 

この記憶の重なり、重層的時制が、4番<過去+現在>という私の時制の結論の意味です。

そして、いつかの<過去>とは、白秋の幼少期、その想い出は、母親の実家、熊本県南関町であることは、これも事実としてどこにでも書いてあることなので、私にはそれ以上の興味はありません。

即ち、4番と3番の時制と記憶の連動関係は、<現在>札幌で見ている「雲」と「山査子の枝」は、<過去>南関町でも見た「雲」と「山査子の枝」でもある、となります。


この時制と事物の整理により、決して詩句には登場しなかった隠れた事物の存在が明らかになります。それは3番の風景の中には、「雲」と「山査子の枝」が無ければならないということです。最も簡潔にいうと、そうでなければ、4番で「も」とは言えないからです(同一事物の比較)。
これは時制の面からも立証することができます。強化のために時制の面からも言うと、同一事物の比較を成立させるためには、参照先は<過去>にしかなく、この詩作品中<過去>時制を持つのは3番だけなので、3番には「雲」と「山査子」がその風景の中(記憶)に存在していなけらばならない、という結論になります。

3番が<過去>時制を持つことは、下の歌詞で確認できます。 

3.この道はいつか来た道、
ああ、そうだよ、

お母さまと馬車で行ったよ。 (下線部<過去>)   

つづく  


参考音源:「この道」https://www.youtube.com/watch?v=0jN0U9S34gc 

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2016-06-18「この道」3〜「この道」の色彩について [童謡・唱歌]




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 「この道」の詩句の色彩について、4番の「山査子」と「雲」は白色、2番の札幌の「時計台」も白色、そこから1番のアカシヤも、まずは白色であるとせねばならないのでしょう。私は植物や草花には疎いので、白秋が札幌で見たアカシヤの花の色を、植物学的に特定することはできませんが、前回の「揺籃のうた」で示した<色彩の統一>からして、「この道」にもそれが、もしくはそれに類する色彩的統一への詩的配慮があって当然ですので、まずは1番のアカシヤの花の色は、白色であると結論してもよいのでしょう。従ってここにいうアカシアは、ニセアカシアという種類になろうかと思います(下写真)。私としては山査子の写真と下のニセアカシアの写真を見て、直感するものがありました。白秋が札幌で見たアカシヤはこの花であったろうと。

ニセアカシア.jpeg ニセアカシアの花

私の直感はさておき、近頃も季節柄、アカシヤの花の色を問う機会があったところ、黄色と答える人に時として出会います。そのような経験があるので、直感的な色彩の同定をこのように少し遠回りをしているわけですが、やはりどうしても、「この道」の1番だけに統一を破って黄色の花が出てくるとは考えにくい。それこそ大変不自然な歌詞になってしまいうことは必定で、やはり白秋詩に限って、意味のない色彩の混同、白色に黄色が混じることは絶対にあり得ない、と私は結論したいと思います。何よりも、山査子とアカシヤの白い花、見間違うほどではなくとも、「白い花」としては充分に重なると思います。

サンザシの花.jpg 山査子の花 (2016-06-16「この道」1〜サンザシの花の色より)

 さて、ニセアカシアまでの、白色という色彩的統一がある、と結論して話しを先に進めます。確定され敷衍された色彩の統一は、それはそれでまた新たな問題を浮上させます。それは唯一3番だけが、特定できる色彩が歌われないという問題です。そしてそこで、3番に出る事物「馬車」若しくは「お母さま」の衣服や持ち物を、無理矢理白色であるとするのは、詩を最もダメにする発想だと言わねばなりません。なぜなら白色を想起できるもの、または、せめて聴感上、白色を想起できるような詩句でなければ、その人物や事物に白色をあてはめることは控えるべきだからです。このことは「揺籃のうた」で見た通りです。白秋の色彩の統一は、そう簡単に揺らぐものではないでしょう。従って「馬車」も「お母さま」も、何ら色彩を表す要素が無い以上、勝手に色彩をこじつけることは止すべきです。
 このことから、私は「この道」の3番だけが、唯一、色彩の歌い込まれていない連だと結論するに至ります。別の言い方をすれば3番だけが、色彩が、それも、故意に抜かれているともいえます。というのは、その他1.2.4番には、色彩が特定できるように書かれてあるからです。このことは3番だけが、他の連に比べ特殊なものであるということを意味するとせねばならない点です。そしてそこから3番がこの歌の丁度中央に位置することで、どうやらこの3番が「この道」の、中心、または核ではないか、という着想が頭をもたげてくるのです。
 そうであれば、この特別な中央の3番と他の連は、どのようにつながり、どのように連動し、それらの時間や場所、それぞれの時制は一致しているのか、といったような新たな問題が次々と浮上してくるのです。
 しかしこの作品の謎の中心は、どうやら3番にあることは間違いなさそうです。これは文学者がやりそうな、ありきたりの起承転結を用いたような詩構成や詩形式、その他文学の専門性から導いたものでなく、白秋詩に描かれる事物への色の信奉から導かれた構造なのです。つづく

参考音源:「この道」https://www.youtube.com/watch?v=x2oJA89uPTc 

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